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画像一覧
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山青水明幽靜靜,
湖心飄來風一陣, 啊行啊行啊 進呀進, 黃昏時候人行少, 半空月影水面搖, 啊行啊行啊 進呀進, 水草茫茫太湖岸, 飄來陣陣蘆花香, 啊行啊行啊 進呀進, 水色山光映斜陽, 湖面點點是帆影, 啊行啊行啊 進呀進
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by sato_ignis
| 2022-12-03 06:02
| 音楽
粤安永七戊戌年頃自然耕作不宜而天明三癸卯歳大飢饉旨赴者四月十一日朝卯時雷強鳴東北風吹従大雨降以来八月晦日暮迄雨天続九月朔日漸晴天也夏中綿入重服致程寒夫故田畑一円無実青立依而諸人毎日鳥屋部嶽江登蕨根掘海艸山艸不申及稲柄稗柄切粉而食物剰人■■■■■■■■且翌辰年春中御領内一統無高下大疫病時行貧福共押靡而病死餓夥敷死人如山殊御町在々毎夜出火或押込強盗理不尽事共夥敷言語道断也御領内総人数六万五千人余内三万人余死也新井田・十日市・田迎・塩入・岩淵人数男女千四百拾八人内六百九十六人死家二百七十二軒内百三十六軒潰也前代未聞事也後来米穀等相囲可申者也記相場附秋田米一貫文四升三合地古米同三升三合粟同六升大麦同七升小麦同六升蕎麦七升小豆同四升五合稗八升大豆同六升五合昆布粉百文小糠一升五十文塩一升四十文蕨打糟一升百五十文大根一本二十四文酒一升五百五十文味噌一盃四十五文
造立施主 九世虎山代 松橋又右衛門 中村庄三郎 新井田・田迎・岩淵・塩入十日市・乙名中 松橋孫助備端 同孫四郎準甫
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by sato_ignis
| 2022-07-13 13:06
| 雑記
天明三癸夘年大凶年當寺拝知百石百性 家数四拾七軒之所二拾九軒死明殘家十八軒也 雖然家一軒男一人或女二人位助命也総合而男 女三百八人之所二百三十二人餓死病死殘而男 女七十六人助命也前代未聞也後来人雑穀無 油断可囲也 天明五乙巳年三月 造立施主松橋孫助備端 同孫四良準甫 石工信州飯嶋増右衛門 當寺九世虎山叟代
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by sato_ignis
| 2022-07-13 13:02
| 雑記
命をすてゝますらをが
たてしいさをは天地の あるべきかぎり語りつぎ いひつぎゆかん後の世に 妻子にわかれ親ををき 君がみためと盡したる そのいさをこそやま櫻
後の世かけてなほ語れ 親兄弟の名をさへに かゞやかしたるますらをは この世にあらぬ後もなほ 國のしづめとなりぬべし #
by sato_ignis
| 2022-07-13 01:49
| 詩
郷里の八戸の市街地からすこし離れた新井田というところに、対泉院という名の古刹があって、この寺の境内に天明の飢饉の際の餓死者を供養した石碑が残っている。飢饉の翌年に当る天明四年の暮に、このあたりの素封家だった松橋孫助という人物が建立したもので、高さ二メートル半ばかり、幅三十センチ、厚さ十二センチの石の表に、大きな文字で餓死万霊等供養塔とあり、裏には、飢饉の惨状を伝える文章が縁からはみ出さんばかりにびっしりと刻まれている。
この供養塔は、以前、山門の前の杉並木の入口に建てられていたが、戦後、大型トラックに突き倒され、いまは数ヵ所に鉄の箍をはめられて山門の横手に移されている。風説によれば、ちょうど餓死者が続出した天明四年閏正月とおなじ時候の、寒気の厳しい二月の夜ふけに、穀物を満載したトラックがそこへさしかかると、タイヤに鎖を巻いていたのに妙なスリップの仕方をして、まるで引き寄せられたかのように供養塔へ横腹を打ち当てたということだが、真偽のほどはわからない。 供養塔は倒れたが、脇に亀裂ができたぐらいで、思いのほか損傷がすくなかった。殊に裏面はほとんど無傷で、そこに刻まれている碑文は、途中の八字だけを除いていまでも残らず読むことができる。 その途中の八字の欠落は、無論そのときの損傷によるものではない。トラックに突き倒される以前から欠落していて、その欠落個所をよく見ると、自然の風化や剝離によるものではないことがわかる。そこだけ故意に、鏨のようなもので叩き潰したあとが歴然としている。 そこで、いつ、だれが、なにゆえに、その八字分の湮滅を計ったのかという疑問が起こるが、それは、その前後の文脈を見るとおよその推察がつく。 前にも述べたように、碑文は天明の飢饉の惨状をつぶさに伝えているが、欠落個所の前には、天明三年の異常気象と、人々が飢えに追い込まれてゆく様子が記されている。その年は、春から東北風(やませ)が吹き止まず、毎日のように雨が降りつづいて、夏のさかりでも綿入れを重ね着しなければならないほどに寒かった。そのために、田畑の作物は一面に実らず、青立ちになり、人々はくる日もくる日も山へ登って、蕨の根を掘り、海草山草はいうに及ばず、稲藁を刻んで粉にして食べたりした。 そんな記述のあとに、「あまつさえ人」とあって、それにつづく八字分が欠落している。欠落のあとには―――その上、翌辰年(天明四年)には領内に疫病が流行し、病死、餓死の人数おびただしく、死人は山をなし、また毎夜のごとく火事がつづき、押し込み、切り込み強盗を働く者も数知れず、まことに言語道断で、このあたりの住人千四百十八人のうち六百九十六人が死に、戸数二百十二軒のうち百三十六軒が潰れた、という記述がある。 この前後の文脈から、「あまつさえ人」以下の欠落部分には、おそらく「あまつさえ人の肉を食らい、云々」という記述があったのを、この供養塔の施主が世を去ってから、村の重立った人々の間に、共食いのことまで後世に伝えるには忍びないという意見が起こって、そこだけ削り取ったのだろうと推察できる。 というのは、その後、施主の松橋家から発見された『天明日記』と題する古文書のなかに、はっきり共食いの事実が書き残されているからで、こればかりではなく、ほかにも共食いの見聞を伝える民間の記録がすくなくない。たとえば、現存する商人の手紙、八戸の恵比須屋善六が江戸の井筒屋三郎兵衛に宛てた書状のなかにも、犬猫牛馬は申すに及ばず、 『死に掛かりたる人、人肉を切りはなし喰い居り候。格別にうまき味なる由申し候。実に甚だ塔しく言語同断、かかる時節に遇い候は如何なる不幸に御座候哉』 とある。 勿論、共食いが本当に行われたという証拠はどこにもないし、記録に残っているのは当時の噂にすぎなかったとする学者が多いのも事実だが、子供のころから天明の共食いを昔話に聞きながら育った私は、大人になってから、自分の個人的な事情―――肉親たちがおのれの生命や人生に対してあまりにも執着心が稀薄だったことへの反撥も手伝って、共食いしてまでも生きながらえようとした人々にすくなからぬ関心を抱くようになり、いつかは天明の飢饉を自分の文章で書いてみたいと思うようになった。ただ問題は、共食いするほどの惨状を語るのに耐え得る文体で、私はこれまでの二十年間、絶えずその文体をひそかに摸索しつづけてきたといっていい。 さきごろ文藝雑誌〈群像〉に連載した『おろおろ草紙』がその一応の成果だが、私はこれを書いている間、筆が重くなったり手がすくんだりするたびに、一と晩泊りで郷里へ帰って、新井田の供養塔に参詣した。 門前の雑貨屋で、季節の草花と、一と束の線香と、栗まんじゅうや、せんべいや、果物を買い、それらを手向けて、自分は供養塔と向い合って腰を下ろす。このあたりでは、供物はただ霊前に供えるだけではなく、死者と交歓するために参詣人も一緒にそれを食べるのがならわしだということで、そのことを初めにそこへ案内してくれた農家の主人に教わってからは、私もそのならわしに従った。 そうして半時間ほど、線香の煙に包まれながら、やたらにぼろぼろとこぼれ落ちる餡を手のひらに受けて栗まんじゅうを食ったり、まだ青いところが残っている蜜柑を口をすぼめて食ったりしているうちに、やはり、力して書くほかはないという気持がすこしずつ胸に溜まってくる。 帰りに、私は手を合わせて、もし自分が怯むようなことがあったら、みんなで飛んできて背中を押してくれるようにと祈ったりした。 「群像」十一月号(1982) #
by sato_ignis
| 2022-06-29 12:26
| 読書
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