太田なわのれんの「御免天下 牛鍋元祖由来記」、ナカナカいい文だ。
□殻を破って・・・・・・牛鍋に舌鼓
・・・然し目色の変った外人が開港以来ドシドシ入国して盛んに肉類をパクツキ出しても獣嫌悪思想は相当根強く高級の連中は中々寄りつこうともしませんでしたが文明開化の魅力は次第に肉食を自慢するようになりまして和風西洋料理たる牛鍋が流行しはじめたので御座います。・・・
□牡丹鍋は教ふ・・・・・・
初のお客は色里帰りの若衆 鍋は五銭 お酒は二銭五厘
初代音吉は能登国鳳至郡本郷町高橋長吉の二男で開港と聞いて横浜へやってきて明治元年に今の牛鍋を創始し明治十六年六十七年で逝りました。
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初代音吉は太っ腹などちらかと云うと頑固一徹の人で「品物は俺のもの、売るも売らぬも俺の胸三寸」といった風の商売の遣り方も汚なかったので「汚な屋」「因業屋」などの綽名があり、矢大臣式に醤油樽に腰かけてパクつくと云う寸法だった様でした。そして自分は大酒呑みで一日中酒気がなければ仕事が出来ぬと云った風の人で御座居ますが(ママ)客人には身体にさわるからと云って三合以上は何と云っても売りませんでした。そして朝から酔い気味で仕事をして居りますので、牛肉を薄く切るのなんか面倒臭いと包丁でぶつぶつ切って出したのが却ってお客の趣向に投じ味噌のタレと共に弊店の独得の家伝となって居るので御座います。・・・