家郷忘じ難しと云ふ。まことにそのとほりである。故郷はとうてい捨てきれないものである。それを愛する人は愛する意味に於て、それを憎む人は憎む意味に於て。
更にまた、豫言者は故郷に容れられずと云ふ諺もある。えらい人はえらいが故に理解されない、變つた者は變つてゐるために爪彈きされる。しかし、拒まれても嘲られても、それを捨て得ないところに、人間性のいたましい發露がある。錦衣還郷が人情ならば、襤褸をさげて故園の山河をさまよふのもまた人情である。
近代人は故郷を失ひつつある。故郷を持たない人間がふえてゆく。彼等の故郷は機械の間かも知れない。或はテーブルの上かも知れない。或はまた、鬪爭そのもの、享樂そのものかも知れない。しかしながら、身の故郷はいかにともあれ、私たちは心の故郷を離れてはならないと思ふ。
自性を徹見して本地の風光に歸入する、この境地を禪門では『歸家穩坐』と形容する。ここまで到達しなければ、ほんとうの故郷、ほんとうの人間、ほんとうの自分は見出せない。
自分自身にたちかへる、ここから新らしい第一歩を踏み出さなければならない。そして歩み續けなければならない。
私は今、ふるさとのほとりに庵居してゐる。とうとう却つてきましたね――と慰められたり憐まれたりしながら、ひとりしずかに自然を觀じ人事を觀じてゐる。餘生いつまで保つかは解らないけれど、枯木死灰と化さないかぎり、ほんとうの故郷を欣求することは忘れてゐない。
(「三八九」復活第四集 昭和七年十二月十五日發行)