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かくれんぼで、倉の隅にもぐりこんだ東一君がランプを持つて出て來た。
それは珍らしい形のランプであつた。八十糎ぐらゐの太い竹の筒が臺になつてゐて、その上にちよつぴり火のともる部分がくつついてゐる、そしてほやは、細いガラスの筒であつた。はじめて見るものにはランプとは思へないほどだつた。 そこでみんなは、昔の鐵砲とまちがへてしまつた。 「何だア、鐵砲かア」と鬼の宗八君はいつた。 東一君のおぢいさんも、暫くそれが何だかわからなかつた。眼鏡越にぢつと見てゐてから、はじめてわかつたのである。 ランプであることがわかると、東一君のおぢいさんはかういつて子供達を叱りはじめた。 「こらこら、お前達は何を持出すか。まことに子供といふものは、默つて遊ばせておけば何を持出すやらわけのわからん、油斷もすきもない、ぬすつと猫のやうなものだ。こらこら、それはここへ持つて來て、お前達は外へ行つて遊んで來い。外に行けば、電信柱でも何でも遊ぶものは幾らでもあるに。」 かうして叱られると子供ははじめて、自分がよくない行ひをしたことがわかるのである。そこで、ランプを持出した東一君はもちろんのこと、何も持出さなかつた近所の子供達も、自分達みんなで惡いことをしたやうな顏をして、すごすごと外の道へ出ていつた。 外には、春の晝の風が、ときをり道のほこりを吹立ててすぎ、のろのろと牛車が通つたあとを、白い蝶がいそがしさうに通つてゆくこともあつた。なるほど電信柱があつちこつちに立つてゐる。しかし子供達は電信柱なんかで遊びはしなかつた。大人が、かうして遊べといつたことを、いはれたままに遊ぶといふのは何となくばかげてゐるやうに子供には思へるのである。 そこで子供達は、ポケットの中のラムネ玉をカチカチいはせながら、廣場の方へとんでいつた。そしてまもなく自分達の遊びで、さつきのランプのことは忘れてしまつた。 日ぐれに東一君は家へ歸つて來た。奧の居間のすみに、あのランプがおいてあつた。しかし、ランプのことを何かいふと、またおぢいさんにがみがみいはれるかも知れないので、默つてゐた。 夕御飯のあとの退屈な時間が來た。東一君はたんすにもたれて、ひき出しのくわんをカタンカタンといはせてゐたり、店に出てひげを生はやした農學校の先生が『大根栽培(だいこんさいばい)の理論(りろん)と實際(じつさい)』といふやうな、むつかしい名前の本を番頭に注文するところを、ぢつと見てゐたりした。 さういふことにも飽くと、また奧の居間にもどつて來て、おぢいさんがゐないのを見すまして、ランプのそばへにじりより、そのほやをはづしてみたり、五錢白銅貨ほどのねじをまはして、ランプの芯(しん)を出したりひつこめたりしてゐた。 すこしいつしようけんめいになつていぢくつてゐると、またおぢいさんにみつかつてしまつた。けれどこんどはおぢいさんは叱らなかつた。ねえやにお茶をいひつけておいて、すつぽんと煙管筒(きせるづつ)をぬきながら、かういつた。 「東坊、このランプはな、おぢいさんにはとてもなつかしいものだ。長いあひだ忘れてをつたが、けふ東坊が倉の隅から持出して來たので、また昔のことを思ひ出したよ。かうおぢいさんみたいに年をとると、ランプでも何でも昔のものに出合ふのがとても嬉しいもんだ。」 東一君はぽかんとしておぢいさんの顏を見てゐた。おぢいさんはがみがみと叱りつけたから、怒つてゐたのかと思つたら、昔のランプに逢ふことができて喜んでゐたのである。 「ひとつ昔の話をしてやるから、ここへ來て坐れ。」 とおぢいさんがいつた。 東一君は話が好きだから、いはれるままにおぢいさんの前へいつて坐つたが、何だかお説教をされるときのやうで、ゐごこちがよくないので、いつもうちで話をきくときにとる姿勢をとつて聞くことにした。つまり、寢そべつて兩足をうしろへ立てて、ときどき足の裏をうちあわせる藝當をしたのである。 おぢいさんの話といふのは次のやうであつた。 今から五十年ぐらゐまへ、ちやうど日露戰爭のじぶんのことである。岩滑新田(やなべしんでん)の村に巳之助(みのすけ)といふ十三の少年がゐた。 巳之助は、父母も兄弟もなく、親戚のものとて一人もない、まつたくのみなしごであつた。そこで巳之助は、よその家の走り使ひをしたり、女の子のやうに子守をしたり、米を搗(つ)いてあげたり、そのほか、巳之助のやうな少年にできることなら何でもして、村に置いてもらつてゐた。 けれども巳之助は、かうして村の人々の御世話で生きてゆくことは、ほんとうをいへばいやであつた。子守をしたり、米を搗いたりして一生を送るとするなら、男とうまれた甲斐がないと、つねづね思つてゐた。 男子は身を立てねばならない。しかしどうして身を立てるか。巳之助は毎日、ご飯を喰べてゆくのがやつとのことであつた。本一册買ふお金もなかつたし、またたとひお金があつて本を買つたとしても、讀むひまがなかつた。 身を立てるのによいきつかけがないものかと、巳之助はこころひそかに待つてゐた。 すると或る夏の日のひるさがり、巳之助は人力車の先綱(さきづな)を頼まれた。 その頃ころ岩滑新田には、いつも二、三人の人力曳(ひき)がゐた。潮湯治(しほたうじ)(海水浴のこと)に名古屋から來る客は、たいてい汽車で半田(はんだ)まで來て、半田から知多半島西海岸の大野や新舞子まで人力車でゆられていつたもので、岩滑新田はちやうどその道すぢにあたつてゐたからである。 人力車は人が曳くのだからあまり速くは走らない。それに、岩滑新田と大野の間には峠が一つあるから、よけい時間がかかる。おまけにその頃の人力車の輪は、ガラガラと鳴る重い鐵輪(かなわ)だつたのである。そこで、急ぎの客は、賃銀を倍(ばい)出だして、二人の人力曳にひいてもらふのであつた。巳之助に先綱曳を頼んだのも、急ぎの避暑客であつた。 巳之助は人力車のながえにつながれた綱を肩にかついで、夏の入陽(いりひ)のじりじり照りつける道を、えいやえいやと走つた。馴れないこととてたいさう苦しかつた。しかし巳之助は苦しさなど氣にしなかつた。好奇心でいつぱいだつた。なぜなら巳之助は、物ごころがついてから、村を一歩も出たことがなく、峠の向かふにどんな町があり、どんな人々が住んでゐるか知らなかつたからである。 日が暮れて靑い夕闇の中を人々がほの白くあちこちする頃、人力車は大野の町にはいつた。 巳之助はその町でいろいろな物をはじめて見た。軒をならべて續いてゐる大きい商店が、第一、巳之助には珍らしかつた。巳之助の村にはあきなひやとては一軒しかなかつた。駄菓子、草鞋、絲繰りの道具、膏藥、貝殼にはいつた目藥、そのほか村で使ふたいていの物を賣つてゐる小さな店が一軒きりしかなかつたのである。 しかし巳之助をいちばんおどろかしたのは、その大きな商店が、一つ一つともしてゐる、花のやうに明かるいガラスのランプであつた。巳之助の村では夜はあかりなしの家が多かつた。まつくらな家の中を、人々は盲のやうに手でさぐりながら、水甕(みづがめ)や、石臼や大黑柱をさぐりあてるのであつた。すこしぜいたくな家では、おかみさんが嫁入のとき持つて來た行燈(あんどん)を使ふのであつた。行燈は紙を四方に張りめぐらした中に、油のはいつた皿さらがあつて、その皿のふちにのぞいてゐる燈心とうしんに、櫻の莟(つぼみ)ぐらゐの小さいほのほがともると、まはりの紙にみかん色のあたたかな光がさし、附近は少し明かるくなつたのである。しかしどんな行燈にしろ、巳之助が大野の町で見たランプの明かるさにはとても及ばなかつた。 それにランプは、その頃としてはまだ珍らしいガラスでできてゐた。煤(すゝ)けたり、破れたりしやすい紙でできてゐる行燈より、これだけでも巳之助にはいいもののやうに思はれた。 このランプのために、大野の町ぜんたいが龍宮城かなにかのやうに明かるく感じられた。もう巳之助は自分の村へ歸りたくないとさへ思つた。人間は誰でも明かるいところから暗いところに歸るのを好まないのである。 巳之助は駄賃(だちん)の十五錢を貰ふと、人力車とも別れてしまつて、お酒にでも醉つたやうに、波の音のたえまないこの海邊の町を、珍らしい商店をのぞき、美しく明かるいランプに見とれて、さまよつてゐた。 呉服屋では、番頭さんが、椿の花を大きく染め出した反物を、ランプの光の下にひろげて客に見せてゐた。穀屋では、小僧さんがランプの下で小豆のわるいのを一粒づつ拾ひ出してゐた。また或る家では女の子が、ランプの光の下に白くひかる貝殼を散らしておはじきをしてゐた。また或る店ではこまかい珠(たま)に絲を通して數珠(じゆず)をつくつてゐた。ランプの靑やかな光のもとでは、人々のかうした生活も、物語か幻燈の世界でのやうに美しくなつかしく見えた。 巳之助は今までなんども、「文明開化で世の中がひらけた。」といふことをきいてゐたが、今はじめて文明開化といふことがわかつたやうな氣がした。 步いてゐるうちに、巳之助は、樣々なランプをたくさん吊つるしてある店のまへに來た。これはランプを賣つてゐる店にちがひない。 巳之助はしばらくその店のまへで十五錢を握りしめながらためらつてゐたが、やがて決心してつかつかとはいつていつた。 「ああいうものを賣つとくれや。」 と巳之助はランプをゆびさしていつた。まだランプといふ言葉を知らなかつたのである。 店の人は、巳之助がゆびさした大きい吊(つり)ランプをはづして來たが、それは十五錢では買へなかつた。 「負けとくれや。」 と巳之助はいつた。 「さうは負からん。」 と店の人は答へた。 「卸値(おろしね)で賣つとくれや。」 巳之助は村の雜貨屋へ、作つた草鞋を買つてもらひによく行つたので、物には卸値と小賣値があつて、卸値は安いといふことを知つてゐた。たとへば、村の雜貨屋は、巳之助の作つた瓢箪型の草鞋を卸値の一錢五厘で買ひとつて、人力曳たちに小賣値の二錢五厘で賣つてゐたのである。 ランプ屋の主人は、見も知らぬどこかの小僧がそんなことをいつたので、びつくりしてまじまじと巳之助の顏を見た。そしていつた。 「卸値で賣れつて、そりや相手がランプを賣る家なら卸値で賣つてあげてもいいが、一人一人のお客に卸値で賣るわけにはいかんな。」 「ランプ屋なら卸値で賣つてくれるだのイ?」 「ああ。」 「そんなら、おれ、ランプ屋だ。卸値で賣つてくれ。」 店の人はランプを持つたまま笑ひ出した。 「おめえがランプ屋? はッはッはッはッ」 「ほんとうだよ、おッつあん。おれ、ほんとうにこれからランプ屋になるんだ。な、だから頼むに、今日は一つだけンど卸値で賣つてくれや。こんど來るときや、たくさん、いつぺんに買ふで。」 店の人ははじめ笑つてゐたが、巳之助の眞劍なやうすに動かされて、いろいろ巳之助の身の上をきいたうへ、 「よし、そんなら卸値でこいつを賣つてやらう。ほんとは卸値でもこのランプは十五錢ぢや賣れないけど、おめえの熱心なのに感心した。負けてやらう。そのかはりしつかりしやうばいをやれよ。うちのランプをどんどん持つてつて賣つてくれ。」 といつて、ランプを巳之助に渡した。 巳之助はランプのあつかひ方を一通り教へてもらひ、ついでに提灯がはりにそのランプをともして、村へむかつた。 藪や松林のうちつづく暗い峠道でも、巳之助はもう恐くはなかつた。花のやうに明かるいランプをさげてゐたからである。 巳之助の胸の中にも、もう一つのランプがともつてゐた。文明開化に遲れた自分の暗い村に、このすばらしい文明の利器を賣りこんで、村人達の生活を明かるくしてやらうといふ希望のランプが―― 巳之助の新しいしやうばいは、はじめのうちまるではやらなかつた。百姓たちは何でも新しいものを信用しないからである。 そこで巳之助はいろいろ考へたあげく、村で一軒きりのあきないやへそのランプを持つていつて、ただで貸してあげるからしばらくこれを使つて下さいと頼んだ。 雜貨屋の婆ばあさんは、しぶしぶ承知して、店の天井に釘を打つてランプを吊し、その晩からともした。 五日ほどたつて、巳之助が草鞋を買つてもらひに行くと、雜貨屋の婆さんはにこにこしながら、こりやたいへん便利で明かるうて、夜でもお客がよう來てくれるし、釣錢をまちがへることもないので、氣に入つたから買ひませう、といつた。その上、ランプのよいことがはじめてわかつた村人から、もう三つも注文のあつたことを巳之助にきかしてくれた。巳之助はとびたつやうに喜んだ。 そこで雜貨屋の婆さんからランプの代と草鞋の代を受けとると、すぐその足で、走るやうにして大野へいつた。そしてランプ屋の主人にわけを話して、足りないところは貸してもらひ、三つのランプを買つて來て、注文した人に賣つた。 これから巳之助のしやうばいははやつて來た。 はじめは注文をうけただけ大野へ買ひにいつてゐたが、少し金がたまると、注文はなくてもたくさん買ひこんで來た。 そして今はもう、よその家の走り使ひや子守をすることはやめて、ただランプを賣るしやうばいだけにうちこんだ。物干臺のやうなわくのついた車をしたてて、それにランプやほやなどをいつぱい吊し、ガラスの觸れあふ涼しい音をさせながら、巳之助は自分の村や附近の村々へ賣りにいつた。 巳之助はお金も儲かつたが、それとは別に、このしやうばいがたのしかつた。今まで暗かつた家に、だんだん巳之助の賣つたランプがともつてゆくのである。暗い家に、巳之助は文明開化の明かるい火を一つ一つともしてゆくやうな氣がした。 巳之助はもう靑年になつてゐた。それまでは自分の家とてはなく、區長さんのところの軒のかたむいた納屋(なや)に住ませてもらつてゐたのだが、小金がたまつたので、自分の家もつくつた。すると世話してくれる人があつたのでお嫁さんももらつた。 或るとき、よその村でランプの宣傳をしてをつて、「ランプの下なら疉の上に新聞をおいて讀むことが出來るのイ」と區長さんに以前きいてゐたことをいふと、お客さんの一人が「ほんとかン?」とききかへしたので、嘘のきらひな巳之助は、自分でためして見る氣になり、區長さんのところから古新聞をもらつて來て、ランプの下にひろげた。 やはり區長さんのいはれたことはほんとうであつた。新聞のこまかい字がランプの光で一つ一つはつきり見えた。「わしは嘘を云つてしやうばいをしたことにはならない」と巳之助はひとりごとをいつた。しかし巳之助は、字がランプの光ではつきり見えても何にもならなかつた。字を讀むことができなかつたからである。 「ランプで物はよく見えるやうになつたが、字が讀めないぢや、まだほんとうの文明開化ぢやねえ。」 さういつて巳之助は、それから毎晩區長さんのところへ字を教へてもらひにいつた。 熱心だつたので一年もすると、巳之助は尋常科を卒業した村人の誰にも負けないくらゐ讀めるやうになつた。 そして巳之助は書物を讀むことをおぼえた。 巳之助はもう、男ざかりの大人であつた。家には子供が二人あつた。「自分もこれでどうやらひとり立ちができたわけだ。まだ身を立てるといふところまではいつてゐないけれども。」と、ときどき思つて見て、そのつど心に滿足を覺えるのであつた。 さて或る日、巳之助がランプの芯を仕入れに大野の町へやつて來ると、五六人の人夫が道のはたに穴を堀り、太い長い柱を立ててゐるのを見た。その柱の上の方には腕のやうな木が二本ついてゐて、その腕木には白い瀬戸物のだるまさんのやうなものがいくつかのつてゐた。こんな奇妙なものを道のわきに立てて何にするのだらう、と思ひながら少し先にゆくと、また道ばたに同じやうな高い柱が立つてゐて、それには雀が腕木にとまつて鳴いてゐた。 この奇妙な高い柱は五十米ぐらゐ間をおいては、道のわきに立つてゐた。 巳之助はつひに、ひなたでうどんを乾してゐる人にきいてみた。すると、うどんやは「電氣とやらいふもんが今度ひけるだげな。そいでもう、ランプはいらんやうになるだげな。」と答へた。 巳之助にはよくのみこめなかつた。電氣のことなどまるで知らなかつたからだ。ランプの代りになるものらしいのだが、さうとすれば、電氣といふものはあかりにちがひあるまい。あかりなら、家の中にともせばいいわけで、何もあんなとてつもない柱を道のくろに何本もおつ立てることはないぢやないかと、巳之助は思つたのである。 それから一月ほどたつて、巳之助がまた大野へ行くと、この間立てられた道のはたの太い柱には、黑い綱のやうなものが數本わたされてあつた。黑い綱は、柱の腕木にのつてゐるだるまさんの頭を一まきして次の柱へわたされ、そこでまただるまさんの頭を一まきして次の柱にわたされ、かうしてどこまでもつづいてゐた。 注意してよく見ると、ところどころの柱から黑い綱が二本づつだるまさんの頭のところで別れて、家の軒端につながれてゐるのであつた。 「へへえ、電氣とやらいふもんはあかりがともるもんかと思つたら、これはまるで綱ぢやねえか。雀や燕のええ休み場といふもんよ。」 と巳之助が一人であざわらひながら、知合ひの甘酒屋にはいつてゆくと、いつも土間のまん中の飯臺(はんだい)の上に吊してあつた大きなランプが、横の壁の邊に取りかたづけられて、あとにはそのランプをずつと小さくしたやうな、石油入れのついてゐない、變なかつこうのランプが、丈夫さうな綱で天井からぶらさげられてあつた。 「何だやい、變なものを吊したぢやねえか。あのランプはどこか惡くでもなつたかやい。」 と巳之助はきいた。すると甘酒屋が、 「ありや、こんどひけた電氣といふもんだ。火事の心配がなうて、明かるうて、マッチはいらぬし、なかなか便利なもんだ。」 と答へた。 「ヘッ、へんてこれんなものをぶらさげたもんよ。これぢや甘酒屋の店も何だか間がぬけてしまつた。客もへるだらうよ。」 甘酒屋は、相手がランプ賣であることに氣がついたので、電燈の便利なことはもういはなかつた。 「なア、甘酒屋のとッつあん。見なよ、あの天井のとこを。ながねんのランプの煤(すす)であそこだけ眞黑になつとるに。ランプはもうあそこに居ついてしまつたんだ。今になつて電氣たらいう便利なもんができたからとて、あそこからはづされて、あんな壁のすみつこにひつかけられるのは、ランプがかはいさうよ。」 こんなふうに巳之助はランプの肩をもつて、電燈のよいことはみとめなかつた。 ところでまもなく晩になつて、誰もマッチ一本すらなかつたのに、とつぜん甘酒屋の店が眞晝のやうに明かるくなつたので、巳之助はびつくりした。あまり明かるいので、巳之助は思はずうしろをふりむいて見たほどだつた。 「巳之さん、これが電氣だよ」 巳之助は齒をくひしばつて、ながいあひだ電燈を見つめてゐた。敵(かたき)でも睨んでゐるやうなかほつきであつた。あまり見つめてゐて眼のたまが痛くなつたほどだつた。 「巳之さん、さういつちや何だが、とてもランプで太刀うちはできないよ。ちょつと外へくびを出して町通りを見てごらんよ。」 巳之助はむつつりと入口の障子をあけて、通りをながめた。どこの家どこの店にも、甘酒屋のと同じやうに明かるい電燈がともつてゐた。光は家の中にあまつて、道の上にまでこぼれ出てゐた。ランプを見なれてゐた巳之助にはまぶしすぎるほどのあかりだつた。巳之助は、くやしさに肩でいきをしながら、これも長い間ながめてゐた。 ランプの、てごわはいかたきが出て來たわい、と思つた。いぜんには文明開化といふことをよく言つてゐた巳之助だつたけれど、電燈がランプよりいちだん進んだ文明開化の利器であるといふことは分らなかつた。りこうな人でも、自分が職を失ふかどうかといふやうなときには、物事の判斷が正しくつかなくなることがあるものだ。 その日から巳之助は、電燈が自分の村にもひかれるやうになることを、心ひそかにおそれてゐた。電燈がともるやうになれば、村人達はみんなランプを、あの甘酒屋のしたやうに壁の隅につるすか、倉の二階にでもしまひこんでしまふだらう。ランプ屋のしやうばいはいらなくなるだらう。 だが、ランプでさへ村へはいつて來るにはかなりめんだうだつたから、電燈となつては村人達はこはがつて、なかなか寄せつけることではあるまい、と巳之助は、一方では安心もしてゐた。 しかし間もなく、「こんどの村會で、村に電燈を引くかどうかを決めるだげな。」といふ噂をきいたときには、巳之助は腦天に一撃をくらつたやうな氣がした。強敵いよいよござんなれ、と思つた。 そこで巳之助は默つてはゐられなかつた。村の人々の間に、電燈反對の意見をまくしたてた。 「電氣といふものは、長い線で山の奧からひつぱつて來るもんだでのイ、その線をば夜中に狐や狸がつたつて來て、この近(きん)ぺんの田畠を荒らすことはうけあひだね。」 かういふばかばかしいことを巳之助は、自分の馴れたしやうばいを守るためにいふのであつた。それをいふとき何かうしろめたい氣がしたけれども。 村會がすんで、いよいよ岩滑新田の村にも電燈をひくことにきまつたと聞かされたときにも、巳之助は腦天に一撃をくらつたやうな氣がした。かうたびたび一撃をくらつてはたまらない、頭がどうかなつてしまふ、と思つた。 その通りであつた。頭がどうかなつてしまつた。村會のあとで三日間、巳之助は晝間もふとんをひつかぶつて寢てゐた。その間に頭の調子が狂つてしまつたのだ。 巳之助は誰かを怨みたくてたまらなかつた。そこで村會で議長の役をした區長さんを怨むことにした。そして區長さんを怨まねばならぬわけをいろいろ考へた。へいぜいは頭のよい人でも、しやうばいを失ふかどうかといふやうなせとぎわでは、正しい判斷をうしなふものである。とんでもない怨みを抱くやうになるものである。 菜の花ばたの、あたたかい月夜であつた。どこかの村で春祭の支度に打つ太鼓がとほとほと聞えて來た。 巳之助は道を通つてゆかなかつた。みぞの中を鼬(いたち)のやうに身をかがめて走つたり、藪やぶの中を捨犬のやうにかきわけたりしていつた。他人に見られたくないとき、人はかうするものだ。 區長さんの家には長い間やつかいになつてゐたので、よくその樣子はわかつてゐた。火をつけるにいちばん都合のよいのは藁屋根の牛小屋であることは、もう家を出るときから考へてゐた。 母屋(おもや)はもうひつそり寢しづまつてゐた。牛小屋もしづかだつた。しづかだといつて、牛は眠つてゐるかめざめてゐるかわかつたもんぢやない。牛は起きてゐても寢てゐてもしづかなものだから。もつとも牛が眼をさましてゐたつて、火をつけるにはいつこうさしつかへないわけだけれども。 巳之助はマッチのかはりに、マッチがまだなかつたじぶん使はれてゐた火打(ひうち)の道具を持つて來た。家を出るとき、かまどのあたりでマッチを探したが、どうしたわけかなかなか見つからないので、手にあたつたのをさいはひ、火打の道具を持つて來たのだつた。 巳之助は火打で火を切りはじめた。火花は飛んだが、ほくちがしめつてゐるのか、ちつとも燃えあがらないのであつた。巳之助は火打といふものは、あまり便利なものではないと思つた。火が出ないくせにカチカチと大きな音ばかりして、これでは寢てゐる人が眼をさましてしまふのである。 「ちえッ」と巳之助は舌打ちしていつた。「マッチを持つて來りやよかつた。こげな火打みてえな古くせえもなア、いざといふとき間にあはねえだなア。」 さういつてしまつて巳之助は、ふと自分の言葉をききとがめた。 「古くせえもなア、いざといふとき間にあはねえ、……古くせえもなア間にあはねえ……」 ちやうど月が出て空が明かるくなるやうに、巳之助の頭がこの言葉をきつかけにして明かるく晴れて來た。 巳之助は、今になつて、自分のまちがつてゐたことがはつきりとわかつた。――ランプはもはや古い道具になつたのである。電燈といふ新しいいつそう便利な道具の世の中になつたのである。それだけ世の中がひらけたのである。文明開化が進んだのである。巳之助もまた日本のお國の人間なら、日本がこれだけ進んだことを喜んでいいはずなのだ。古い自分のしやうばいが失はれるからとて、世の中の進むのにじやましようとしたり、何の怨みもない人を怨んで火をつけようとしたのは、男として何といふ見苦しいざまであつたことか。世の中が進んで、古いしやうばいがいらなくなれば、男らしく、すつぱりそのしやうばいは棄てて、世の中のためになる新しいしやうばいにかはらうぢやないか。―― 巳之助はすぐ家へとつてかへした。 そしてそれからどうしたか。 寢てゐるおかみさんを起して、今家にあるすべてのランプに石油をつがせた。 おかみさんは、こんな夜更(よふ)けに何をするつもりか巳之助にきいたが、巳之助は自分がこれからしようとしてゐることをきかせれば、おかみさんが止めるにきまつてゐるので、默つてゐた。 ランプは大小さまざまのがみなで五十ぐらゐあつた。それにみな石油をついだ。そしていつもあきなひに出るときと同じやうに、車にそれらのランプをつるして、外に出た。こんどはマッチを忘れずに持つて。 道が西の峠にさしかかるあたりに、半田池といふ大きな池がある。春のことでいつぱいたたへた水が、月の下で銀盤のやうにけぶり光つてゐた。池の岸にははんの木や柳が、水の中をのぞくやうなかつこかうで立つてゐた。 巳之助は人氣(ひとけ)のないここを選んで來た。 さて巳之助はどうするといふのだらう。 巳之助はランプに火をともした。一つともしては、それを池のふちの木の枝に吊した。小さいのも大きいのも、とりまぜて、木にいつぱい吊した。一本の木で吊しきれないと、そのとなりの木に吊した。かうしてとうとうみんなのランプを三本の木に吊した。 風のない夜で、ランプは一つ一つがしずかにまじろがず、燃え、あたりは晝のやうに明かるくなつた。あかりをしたつて寄つて來た魚が、水の中にきらりきらりとナイフのやうに光つた。 「わしの、しやうばいのやめ方はこれだ」 と巳之助は一人でいつた。しかし立去りかねて、ながいあひだ兩手を垂たれたままランプの鈴なりになつた木を見つめてゐた。 ランプ、ランプ、なつかしいランプ。ながの年月なじんで來たランプ。 「わしの、しやうばいのやめ方はこれだ」 それから巳之助は池のこちら側の往還に來た。まだランプは、向かう側の岸の上にみなともつてゐた。五十いくつがみなともつてゐた。そして水の上にも五十いくつの、さかさまのランプがともつてゐた。立ちどまつて巳之助は、そこでもながく見つめてゐた。 ランプ、ランプ、なつかしいランプ。 やがて巳之助はかがんで、足もとから石ころを一つ拾つた。そして、いちばん大きくともつてゐるランプに狙ひをさだめて、力いつぱい投げた。パリーンと音がして、大きい火がひとつ消えた。 「お前たちの時世はすぎた。世の中は進んだ。」 と巳之助はいつた。そして又一つ石ころを拾つた。二番目に大きかつたランプが、パリーンと鳴つて消えた。 「世の中は進んだ。電氣の時世になつた。」 三番目のランプを割つたとき、巳之助はなぜか涙がうかんで來て、もうランプに狙ひを定めることができなかつた。 かうして巳之助は今までのしやうばいをやめた。それから町に出て、新しいしやうばいをはじめた。本屋になつたのである。 × × × 「巳之助さんは今でもまだ本屋をしてゐる。もつとも今ぢやだいぶ年とつたので、息子が店はやつてゐるがね。」 と東一君のおぢいさんは話をむすんで、冷(さ)めたお茶をすすつた。巳之助さんといふのは東一君のおぢいさんのことなので、東一君はまじまじとおぢいさんの顏を見た。いつの間にか東一君はおぢいさんのまへに坐りなほして、おぢいさんのひざに手をおいたりしてゐたのである。 「そいぢや、殘りの四十七のランプはどうした?」 と東一君はきいた。 「知らん。次の日、旅の人が見つけて持つてつたかも知れない。」 「そいぢや、家にはもう一つもランプなしになつちやつた?」 「うん、ひとつもなし。この臺ランプだけが殘つてゐた。」 とおぢいさんは、ひるま東一君が持出したランプを見ていつた。 「損しちやつたね。四十七も誰かに持つてかれちやつて。」 と東一君がいつた。 「うん損しちやつた。今から考へると、何もあんなことをせんでもよかつたとわしも思ふ。岩滑新田に電燈がひけてからでも、まだ五十ぐらゐのランプはけつこう賣れたんだからな。岩滑新田の南にある深谷なんといふ小さい村ぢや、まだ今でもランプを使つてゐるし、ほかにも、ずゐぶんおそくまでランプを使つてゐた村は、あつたのさ。しかし何しろわしもあの頃は元氣がよかつたんでな。思ひついたら、深くも考へず、ぱつぱつとやつてしまつたんだ。」 「馬鹿しちやつたね。」 と東一君は孫だからゑんりよなしにいつた。 「うん、馬鹿しちやつた。しかしね、東坊――」 とおぢいさんは、きせるを膝の上でぎゆッと握りしめていつた。 「わしのやり方は少し馬鹿だつたが、わしのしやうばいのやめ方は、自分でいふのもなんだが、なかなかりつぱだつたと思ふよ。わしの言ひたいのはかうさ、日本がすすんで、自分の古いしやうばいがお役に立たなくなつたら、すつぱりそいつをすてるのだ。いつまでもきたなく古いしやうばいにかじりついてゐたり、自分のしやうばいがはやつてゐた昔の方がよかつたといつたり、世の中のすすんだことをうらんだり、そんな意氣地のねえことは決してしないといふことだ。」 東一君は默つて、ながい間おぢいさんの、小さいけれど意氣のあらはれた顏をながめてゐた。やがて、いつた。 「おぢいさんはえらかつたんだねえ。」 そしてなつかしむやうに、かたわらの古いランプを見た。
by sato_ignis
| 2021-02-19 18:00
| 読書
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