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「非常時」と云ふなんとなく不氣味なしかしはつきりした意味のわかりにくい言葉がはやりだしたのはいつごろからであつたか思ひ出せないが、ただ近來何かしら日本全國土の安寧を脅かす黒雲のやうなものが遠い水平線の向かう側からこつそりのぞいてゐるらしいと云ふ、言はば取り止めのない惡夢のやうな不安の陰翳が國民全體の意識の底層に搖曳してゐることは事實である。さうして、その不安の渦卷の廻轉する中心點はと言へば矢張り近き將來に期待される國際的折衝の難關であることは勿論である。 さう云ふ不安を更にあふり立てでもするやうに、ことしになつてからいろいろの天變地異が踵(くびす)を次いでわが國土を襲ひ、さうしておびただしい人命と財産を奪つたやうに見える。あの恐ろしい凾館の大火や近くは北陸地方の水害の記憶がまだなまなましいうちに、更に九月二十一日の近畿地方大風水害が突發して、その損害は容易に評價のできないほど甚大なものであるやうに見える。國際的の所謂「非常時」は、少なくも現在に於ては、無形な實證のないものであるが、これらの天變地異の「非常時」は尤も具象的な眼前の事實としてその慘状を曝露してゐるのである。 一家のうちでも、どうかすると、直接の因果關係の考へられないやうないろいろな不幸が頻發することがある。すると人はきつと何かしら神祕的な因果応報の作用を想像して祈祷や厄拂の他力にすがろうとする。國土に災禍の續起する場合にも同樣である。しかし統計に關する數理から考へてみると、一家なり一國なりにある年は災禍が重疉しまた他の年には全く無事な囘り合はせが來ると云ふことは、純粹な偶然の結果としても當然期待されうる「自然變異(ナチゆラルフラクチユエーシヨン)」の現象であつて、別に必ずしも怪力亂神を語るには當たらないであらうと思はれる。惡い年囘りはむしろいつかは囘つて來るのが自然の鐵則であると覺悟を定めて、良い年囘りの間に充分の用意をしておかなければならないと云ふことは、實に明白すぎるほど明白なことであるが、またこれほど萬人がきれいに忘れがちなこともまれである。もつともこれを忘れてゐるおかげで今日を樂しむことができるのだと云ふ人があるかもしれないのであるが、それは個人めいめいの哲學に任せるとして、少なくも一國の爲政の樞機に參與する人々だけは、この健忘症に對する診療を常々怠らないやうにしてもらひたいと思ふ次第である。 日本はその地理的の位置がきはめて特殊であるために國際的にも特殊な關係が生じいろいろな假想敵國に對する特殊な防備の必要を生じると同樣に、氣象學的地球物理學的にもまたきはめて特殊な環境の支配を受けてゐるために、その結果として特殊な天變地異に絶えず脅かされなければならない運命のもとに置かれてゐることを一日も忘れてはならない筈である。 地震津波颱風のごとき西歐文明諸國の多くの國々にも全然無いとは言はれないまでも、頻繁にわが國のやうに劇甚な災禍を及ぼすことは甚だまれであると言つてもよい。わが國のやうにかう云ふ災禍の頻繁であると云ふことは一面から見ればわが國の國民性の上に良い影響を及ぼしてゐることも否定し難いことであつて、數千年來の災禍の試煉によつて日本國民特有のいろいろな國民性のすぐれた諸相が作り上げられたことも事實である。 しかしここで一つ考へなければならないことで、しかもゐつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すと云ふ事實である。 人類がまだ草昧の時代を脱しなかつたころ、がんじやうな岩山の洞窟の中に住まつてゐたとすれば、たいていの地震や暴風でも平氣であつたらうし、これらの天變によつて破壞さるべきなんらの造營物をも持ち合はせなかつたのである。もう少し文化が進んで小屋を作るやうになつても、テントか掘つ立て小屋のやうなものであつて見れば、地震には却つて絶對安全であり、またたとへ風に飛ばされてしまつても復舊は甚だ容易である。兔に角かう云ふ時代には、人間は極端に自然に從順であつて、自然に逆らふやうな大それた企ては何もしなかつたからよかつたのである。 文明が進むに從つて人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた。さうして、重力に逆らひ、風壓水力に抗するやうないろいろの造營物を作つた。さうしてあつぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになつてゐると、どうかした拍子に檻を破つた猛獸の大群のやうに、自然があばれ出して高樓を倒潰せしめ堤防を崩潰させて人命を危うくし財産を滅ぼす。その災禍を起こさせたもとの起こりは天然に叛抗する人間の細工であると言つても不當ではない筈である、災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやが上にも災害を大きくするやうに努力してゐるものはたれあらう文明人そのものなのである。 もう一つ文明の進歩のために生じた對自然關係の著しい變化がある。それは人間の團體、なかんづく所謂國家あるいは國民と稱するものの有機的結合が進化し、その内部機構の分化が著しく進展して來たために、その有機系のある一部の損害が系全體に對して甚だしく有害な影響を及ぼす可能性が多くなり、時には一小部分の傷害が全系統に致命的となりうる恐れがあるやうになつたと云ふことである。 單細胞動物のやうなものでは個體を切斷しても、各片が平氣で生命を持續することができるし、もう少し高等なものでも、肢節を切斷すれば、その痕跡から代はりが芽を吹くと云ふ事もある。しかし高等動物になると、さう云ふ融通がきかなくなつて、針一本でも打ち所次第では生命を失ふやうになる。 先住アイヌが日本の大部に住んでゐたころにたとへば大正十二年の關東大震か、今度の九月二十一日のやうな颱風が襲來したと想像してみる。彼らの宗教的畏怖の念はわれわれの想像以上に強烈であつたであらうが、彼らの受けた物質的損害は些細なものであつたに相違ない。前にも述べたやうに彼らの小屋にとつては弱震も烈震も效果に於てたいした相違はないであらうし、毎秒二十メートルの風も毎秒六十メートルの風も矢張り結果に於てほぼ同等であつたらうと想像される。さうして、野生の鳥獸が地震や風雨に堪へるやうにこれら未開の民もまた年々歳々の天變を案外樂にしのいで種族を維持して來たに相違ない。さうして食物も衣服も住居もめいめいが自身の勞力によつて獲得するのであるから、天災による損害は結局各個人めいめいの損害であつて、その恢復もまためいめいの仕事であり、まためいめいの力で恢復し得られないやうな損害は始めからありやうがない筈である。 文化が進むに從つて個人が社會を作り、職業の分化が起こつて來ると事情は未開時代と全然變はつて來る。天災による個人の損害は最早その個人だけの迷惑では濟まなくなつて來る。村の貯水池や共同水車小屋が破壞されれば多數の村民は同時にその損害の餘響を受けるであらう。 二十世紀の現代では日本全體が一つの高等な有機體である。各種の動力を運ぶ電線やパイプやが縱横に交叉し、いろいろな交通網がすきまもなく張り渡されてゐるありさまは高等動物の神經や血管と同樣である。その神經や血管の一か所に故障が起こればその影響は忽ち全體に波及するであらう。今度の暴風で畿内地方の電信が不通になつたために、どれだけの不都合が全國に波及したかを考へてみればこの事は了解されるであらう。 これほどだいじな神經や血管であるから天然の設計に成る動物體内ではこれらの器官が實に巧妙な仕掛けで注意深く保護されてゐるのであるが、一國の神經であり血管である送電線は野天に吹きさらしで風や雪が一寸ばかりつよく觸れればすぐに切斷するのである。市民の榮養を供給する水道は一寸した地震で斷絶するのである。もつとも、送電線にしても工學者の計算によつて相當な風壓を考慮し若干の安全係數をかけて設計してある筈であるが、變化のはげしい風壓を靜力學的に考へ、しかもロビンソン風速計で測つた平均風速だけを目安にして勘定したりするやうなアカデミツクな方法によつて作つたものでは、弛張のはげしい風の息の僞週期的衝撃に堪へないのはむしろ當然のことであらう。 それで、文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があると云ふ事實を充分に自覺して、そして平生からそれに對する防禦策を講じなければならない筈であるのに、それがいつこうにできてゐないのはどう云ふわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟さう云ふ天災がきはめてまれにしか起こらないで、丁度人間が前車の顛覆を忘れたころにそろそろ後車を引き出すやうになるからであらう。 しかし昔の人間は過去の經驗を大切に保存し蓄積してその教へにたよることが甚だ忠實であつた。過去の地震や風害に堪へたやうな場所にのみ聚落を保存し、時の試煉に堪へたやうな建築樣式のみを墨守して來た。それだからさうした經驗に從つて造られたものは關東震災でも多くは助かつてゐるのである。大震後横濱から鎌倉へかけて被害の状況を見學に行つたとき、かの地方の丘陵のふもとを縫ふ古い村家が存外平氣で殘つてゐるのに、田んぼの中に發展した新開地の新式家屋がひどくめちやめちやに破壞されてゐるのを見た時につくづくさう云ふ事を考へさせられたのであつたが、今度の關西の風害でも、古い神社佛閣などは存外あまりいたまないのに、時の試煉を經ない新樣式の學校や工場が無殘に倒潰してしまつたと云ふ話を聞いていつさうその感を深くしてゐる次第である。矢張り文明の力を買ひかぶつて自然を侮り過ぎた結果からさう云ふことになつたのではないかと想像される。新聞の報ずるところによると幸ひに當局でもこの點に注意してこの際各種建築被害の比較的研究を徹底的に遂行することになつたらしいから、今囘の苦い經驗がむだになるやうな事は萬に一つもあるまいと思ふが、しかしこれは決して當局者だけに任すべき問題ではなく國民全體が日常めいめいに深く留意すべきことであらうと思はれる。 小學校の倒潰のおびただしいのは實に不可思議である。ある友人は國辱中の大國辱だと言つて憤慨してゐる。一寸勘定してみると普通家屋の全潰百三十五に對し學校の全潰一の割合である。實に驚くべき比例である。これにはいろいろの理由があるであらうが、要するに時の試煉を經ない造營物が今度の試驗でみごとに落第したと見ることはできるであらう。 小學校建築には政黨政治の宿弊に根を引いた不正な施工がつきまとつてゐると云ふゴシツプもあつて、小學生を殺したものは○○議員だと皮肉を云ふものさへある。あるいは吹き拔き廊下のせゐだと云ふ甚だ手取り早で少し疑はしい學説もある。あるいはまた大概の學校は周圍が廣い明き地に圍まれてゐるために風當たりが強く、その上に二階建てであるためにいつさういけないと云ふ解釋もある。いづれもほんとうかもしれない。しかしいづれにしても、今度のやうな烈風の可能性を知らなかつたあるいは忘れてゐたことがすべての災厄の根本原因である事には疑ひない。さうしてまた、工事に關係する技術者がわが國特有の氣象に關する深い智識を缺き、通り一ぺんの西洋直傳の風壓計算のみをたよりにしたためもあるのではないかと想像される。これに就いては甚だ僣越ながらこの際一般工學者の謙虚な反省を促したいと思ふ次第である。天然を相手にする工事では西洋の工學のみにたよることはできないのではないかと云ふのが自分の年來の疑ひであるからである。 今度の大阪や高知縣東部の災害は颱風による高潮のためにその慘禍を倍加したやうである。まだ充分な調査資料を手にしないから確實なことは言はれないが、尤もひどい損害を受けたおもな區域はおそらく矢張り明治以後になつてから急激に發展した新市街地ではないかと想像される。災害史によると、難波(なにわ)や土佐の沿岸は古來屡々暴風時の高潮のためになぎ倒された經驗をもつてゐる。それで明治以前にはさう云ふ危險のあるやうな場所には自然に人間の聚落が稀薄になつてゐたのではないかと想像される。古い民家の聚落の分布は一見偶然のやうであつても、多くの場合にさうした進化論的の意義があるからである。そのだいじな深い意義が、淺薄な「教科書學問」の横行のために蹂躙され忘却されてしまつた。さうして附け燒き刄の文明に陶醉した人間はまうすつかり天然の支配に成功したとのみ思ひ上がつて所きらはず薄弱な家を立て連ね、さうして枕を高くしてきたるべき審判の日をうかうかと待つてゐたのではないかと云ふ疑ひも起こし得られる。もつともこれは單なる想像であるが、しかし自分が最近に中央線の鐵道を通過した機會に信州や甲州の沿線に於る暴風被害を瞥見した結果氣のついた一事は、停車場附近の新開町の被害が相當多い場所でも古い昔から土着と思はるる村落の被害が意外に少ないと云ふ例の多かつた事である。これは、一つには建築樣式の相違にもよるであらうが、また一つには所謂地の利によるであらう。舊村落は「自然淘汰」と云ふ時の試煉に堪へた場所に「適者」として「生存」してゐるのに反して、停車場と云ふものの位置は氣象的條件などと云ふことは全然無視して官僚的政治的經濟的な立場からのみ割り出して決定されてゐるためではないかと思はれるからである。 それは兔に角、今度の風害が「所謂非常時」の最後の危機の出現と時を同じゆうしなかつたのは何よりのしあはせであつたと思ふ。これが戰禍と重なり合つて起こつたとしたらその結果はどうなつたであらうか、想像するだけでも恐ろしいことである。弘安の昔と昭和の今日とでは世の中が一變してゐることを忘れてはならないのである。 戰爭はぜひとも避けようと思へば人間の力で避けられなくはないであらうが、天災ばかりは科學の力でもその襲來を中止させるわけには行かない。その上に、いついかなる程度の地震暴風津波洪水が來るか今のところ容易に豫知することができない。最後通牒も何もなしに突然襲來するのである。それだから國家を脅かす敵としてこれほど恐ろしい敵はない筈である。もつともかうした天然の敵のためにかうむる損害は敵國の侵掠によつて起こるべき被害に比べて小さいと云ふ人があるかもしれないが、それは必ずしもさうは言はれない。たとへば安政元年の大震のやうな大規模のものが襲來すれば、東京から福岡に至るまでのあらゆる大小都市の重要な文化設備が一時に脅かされ、西半日本の神經系統と循環系統に相當ひどい故障が起こつて有機體としての一國の生活機能に著しい麻痺症状を惹起する恐れがある。萬一にも大都市の水道貯水池の堤防でも決潰すれば市民が忽ち日々の飮用水に困るばかりでなく、氾濫する大量の流水の勢力は少なくも數村を微塵になぎ倒し、多數の犠牲者を出すであらう。水電の堰堤が破れても同樣な犠牲を生じるばかりか、都市は暗やみになり肝腎な動力網の源が一度に涸れてしまふことになる。 かう云ふこの世の地獄の出現は、歴史の教うるところから判斷して決して單なる杞憂ではない。しかも安政年間には電信も鐵道も電力網も水道もなかつたから幸ひであつたが、次に起こる「安政地震」には事情が全然ちがふと云ふことを忘れてはならない。 國家の安全を脅かす敵國に對する國防策は現に政府當局の間で熱心に研究されてゐるであらうが、殆ど同じやうに一國の運命に影響する可能性の豐富な大天災に對する國防策は政府のどこでだれが研究しいかなる施設を準備してゐるか甚だ心もとないありさまである。思ふに日本のやうな特殊な天然の敵を四面に控へた國では、陸軍海軍のほかにもう一つ科學的國防の常備軍を設け、日常の研究と訓練によつて非常時に備へるのが當然ではないかと思はれる。陸海軍の防備がいかに充分であつても肝腎な戰爭の最中に安政程度の大地震や今囘の颱風あるいはそれ以上のものが軍事に關する首腦の設備に大損害を與へたらいつたいどう云ふことになるであらうか。さう云ふことはさうめつたにないと言つて安心してゐてもよいものであらうか。 わが國の地震學者や氣象學者は從來かかる國難を豫想して屡々當局と國民とに警告を與へたはずであるが、當局は目前の政務に追はれ、國民はその日の生活にせはしくて、さうした忠言に耳をかす暇(いとま)がなかつたやうに見える。誠に遺憾なことである。 颱風の襲來を未然に豫知し、その進路とその勢力の消長とを今よりもより確實に豫測するためには、どうしても太平洋上ならびに日本海上に若干の觀測地點を必要とし、その上にまた大陸方面からオホツク海方面までも觀測網を廣げる必要があるやうに思はれる。しかるに現在では細長い日本島弧の上に、言はばただ一連の念珠のやうに觀測所の列が分布してゐるだけである。たとへて言はば奧州街道から來るか東海道から來るか信越線から來るかもしれない敵の襲來に備へるために、ただ中央線の沿線だけに哨兵を置いてあるやうなものである。 新聞記事によると、アメリカでは太平洋上に浮き飛行場を設けて横斷飛行の足がかりにする計劃があると云ふことである。うそかもしれないがしかしアメリカ人にとつては充分可能なことである。若しこれが可能とすれば、洋上に浮き觀測所の設置と云ふこともあながち學究の描き出した空中樓閣だとばかりは言はれないであらう。五十年百年の後にはおそらく常識的になるべき種類のことではないかと想像される。 人類が進歩するに從つて愛國心も大和魂も矢張り進化すべきではないかと思ふ。砲煙彈雨の中に身命を賭として敵の陣營に突撃するのもたしかに貴(たつと)い日本魂(やまとだましひ)であるが、○國や△國よりも強い天然の強敵に對して平生から國民一致協力して適當な科學的對策を講ずるのもまた現代にふさはしい大和魂の進化の一相として期待してしかるべきことではないかと思はれる。天災の起こつた時に始めて大急ぎでさうした愛國心を發揮するのも結構であるが、昆蟲や鳥獸でない二十世紀の科學的文明國民の愛國心の發露にはもう少しちがつた、もう少し合理的な樣式があつてしかるべきではないかと思ふ次第である。
by sato_ignis
| 2020-07-22 04:27
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