昨日、ほうぼうで晴着とすれ違う。わらわらと塾に集まってきた子らの笑顔もうれしい。お式は、出会いと別れは、実にいいものだ。
成人のその日は、中退、再受験、ただ自分のわがままの、変化のまっただなかにいた。乾坤一擲、のるかそるか、一寸先は(闇とは言わずとも)、何もかも予想だにつかなかった。ただ、おのれにつきうごかされて、わがままにやるしかなかった。
それから一年、夢想だにしなかったしあわせにみちあふれた、それからの一年。その同じの日の朝、階下に、おかしらつきの、ささやかな、しかし本当に美しい膳がすえられていた。はずかしくも、うまれてはじめて、雷のようにうたれた、ふたおやの愛、思いであった。ただ受くるのみの、親の愛、人の恩。しった、わかったというより、気づけるおのれを、気づけるおのれに、気づかせてくれた朝だった。
老いも介護も、命がけの、最後の子育てであるという。それは、後にも先にもない、日々の、この刹那のわれわれでもある。あの朝餉の味は、まったくおぼえていない。しかし、愛されてある、思われてある、あの部屋の、あのひと時の味わいは、生きている実感、誰かに伝うべき幸福であろう。