毎年この時期をむかえると,時機であろうか,就職や進学をひかえた教え子たちから,報告やら相談やらがどっとやってくる。ひとつひとつが,これまでとこれからのおのれを見すえた,凛凛たることばである。迂直に関わらず内省のわだち深く,子莫の如き中を執るものはひとりもない。万難を排して初志を貫徹せんとする猛者もいれば,学部や院で得たであろう初々しく爽やかな自覚もある。どちらにせよ,それは生きてゆく意志になる。一年で結果を出すシゴトをしているけれど,合否からしばし先の,おのれから脱げ出だし,おのれを解き放つこの刹那にふれるおどろきこそが,センセイとしての醍醐味である。
恩師,近辻先生は,私が卒園したずっと後,素読や習字,九九などのカリキュラムがうちの子には難しすぎますとこぼすご父兄に対して,「目の前の幼児に,その時にワカルコトを教えて何になりますお母さん」とおこたえしたそうだ。自らを省みても,先生のお教えとお諭しは,今日もあたたかく私を支えている。而立,不惑と歳を重ねるたび,そしてここにある私を見つめなおすたび,戒めとも励ましともつかぬが,先生のお声やお顔は,確かな息吹や鼓動となって,今ここにいる私のうちに,渾然とたちあがってくる。
目の前の生徒に,その時にワカルコトを教えるシゴトをしていても,解説であれ余談であれ,講義は,それを耳にする彼らにとって,啐までのやしないに,また啄のひとつにもなりえよう。教壇から伝えることばは,彼らの種でも根葉でも,いわんや実でもない。かつ彼らが私のことばを取るも捨てるも,活かすも殺すも,その時だけとも限らない。私は,これからのおのれを見すえる彼らに,期待ではなく,希望を持つ。願わくば,時流を追わず,機嫌をはからず,あるいは一を挙げて百を廃さず,ただただ生きてゆく意志をば燃やして,時中を求めてもらいたい。
人生意気に感じては,成否をたれかあげつらふ。つまり,君たちはそれでいい。おやんなさい。