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第二次世界大戦が日本の降伏によって終結したのは、一九四五年の夏であった。その前後の日本は世界の嫌われ者であった。信じがたい話かもしれないが、世界中の青年の平和なスポーツの祭典であるオリンピック大会にも、戦後しばらくは日本の参加は認められなかった。そういう国際的評価の厳しさを嘆く前に、そういう酷評を受けなければならなかった、かつての日本の独善的な民族主義や国家主義については謙虚に反省しなければならない。そのような状況であったから、世界の経済機構への仲間入りも許されず、日本も日本人もみじめな時代があった。そのころの体験であるが、国際性とは何かを考えさせる話があるので書き記しておきたい。
一九五七年、私はパリで大学の講師を勤めていた。しばらくはホテルにいたが、主任教授の紹介状で下宿が見つかり、訪ねあてたところ、そこの主婦は、私が日本人だと知るや、「夫の弟がベトナムで日本兵に虐殺されているので、あなた個人になんの恨みもないけれど、日本人だけはこの家に入れたくないのです。その気持ちを理解してください。」と言い、私が下宿するのを断った。しかたなく、大学が見つけてくれた貧相な部屋のホテル住まいをすることになった。 そのころの話である。私は平生は大学内の食堂でセルフサービスの定食を食べていたが、大学と方向の違う国立図書館に調べに行くと決めていた土曜は、毎晩、宿の近くの小さなレストランで夕食をとるほかなかった。その店はぜいたくではないがパリらしい雰囲気があり、席も十人そこそこしかない小さな手作りの料理の店であった。白髪の母親が台所で料理を作り、生っ粋のパリ美人という感じの娘がウェイトレスと会計を受け持ち、二人だけで切り盛りしていた。毎土曜の夕食をそこでとっていたから、二か月もすれば顔なじみになった。 若い非常勤講師の月給は安いから、月末になると外国人の私は金詰りの状態になる。そこで月末の土曜の夜は、スープもサラダも肉類もとらず、「今日は食欲がない。」などと余計なことを言ったうえで、いちばん値の張らないオムレツだけを注文して済ませた。それにはパンが一人分ついてくるのが習慣である。そういう注文が何回かあって気づいたのであろう、この若い外国生まれの学者は月末になると苦労しているのではあるまいか、と。 ある晩、また「オムレツだけ。」と言ったとき、娘さんのほうが黙ってパンを二人分添えてくれた。パンは安いから二人分食べ、勘定のときパンも一人分しか要求されないので、「パンは二人分です。」と申し出たら、人差し指をそっと唇に当て、目で笑いながら首を振り、他の客にわからないようにして一人分しか受け取らなかった。私は何か心の温まる思いで、「ありがとう。」と、かすれた声で言ってその店を出た。月末のオムレツの夜は、それ以後、いつも半額の二人前のパンがあった。 その後、何ヶ月かたった二月の寒い季節、また貧しい夜がやって来た。花のパリというけれど、北緯五十度に位置するから、わりに寒い都で、九月半ばから暖房の入るところである。冬は底冷えがする。その夜は雹が降った。私は例によって無理に明るい顔をしてオムレツだけを注文して、待つ間、本を読み始めた。店には二組の客があったが、それぞれ大きな温かそうな肉料理を食べていた。そのときである。背のやや曲がったお母さんのほうが、湯気の立つスープを持って私のテーブルに近寄り、震える手でそれを差し出しながら、小声で、「お客様の注文を取り違えて、余ってしまいました。よろしかったら召し上がってくださいませんか。」と言い、やさしい瞳でこちらを見ている。小さな店だから、今、お客の注文を取り違えたのではないことぐらい、私にはよく分かる。 こうして、目の前に、どっしりしたオニオングラタンのスープが置かれた。寒くてひもじかった私に、それはどんなにありがたかったことか。涙がスープの中に落ちるのを気取られぬよう、一さじ一さじかむようにして味わった。フランスでもつらい目に遭ったことはあるが、この人たちのさりげない親切ゆえに、私がフランスを嫌いになることはないだろう。いや、そればかりではない、人類に絶望することはないと思う。 国際性、国際性とやかましく言われているが、その基本は、流れるような外国語の能力やきらびやかな学芸の才気や事業のスケールの大きさなのではない。それは、相手の立場を思いやる優しさ、お互いが人類の仲間であるという自覚なのである。その典型になるのが、名もない行きずりの外国人の私に、口ごもり恥じらいながら示してくれたあの人たちの無償の愛である。求めるところのない隣人愛としての人類愛、これこそが国際性の基調である。そうであるとすれば、一人一人の平凡な日常の中で、それは試されているのだ。
by sato_ignis
| 2017-11-10 19:47
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