
つたわることば
by sato_ignis
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文学で生計を立てるようになってから,二十数年になるが,文学について得心した事と言ったら何であろうか。それが,いかにも辛い不快な仕事であり,青年期には,その辛い不快な事をやっているのが,自慢の種にもなっていたから,よかった様なものの,自慢の種などというろくでもない意識が消滅すれば,後はもう労働だ。得心尽くの労働には違いないが,時々,自分の血を売るようななりわいが,つくづくいやなる事がある。 私の親しい友達の中には,新聞の連載を二つも書き,その上,週刊誌や月刊誌,そのまた臨時増刊誌と執筆の手をひろげている重労働者が幾人もいる。何も好きこのんで多忙になっているわけではないのだから,さぞ辛い事だろうと思っている。現代に生れて文学をやるとは,辛い不快な事であり,その原因は,私達が伝承した西洋近代文学の毒の中に深く隠れている。そんなのろわれた意識は,彼等には興味がないだろう。併し,自分で勝手に作り上げる辛さが,世間に強いられる幸さより,ほんの少しでも増しなのか。今日では,私は,少しの皮肉も交えずに言う事が出来る。彼等は,世間の御機嫌を取っている。私は自分の御機嫌を取っている。何の違いもありはしない。この考えは,私としては,割合に新しい考えで,今後,追求してみる興味を持つ。 私の家内は,文学について,文学的な興味などを示した事がない。用事のない時の暇つぶしに,たまたま手許にある小説類を,選択なく読んでいるが,先日,藤村の「家」を読み,非常な感動を受けた。だが,これも,彼女は信州生れで,信州の思い出が油然と胸にわいたがためである。彼女は,毎日,人通りまれな一里余りの道を歩いて,小学校に通っていた。その中途に,栗の大木があって,そこまで来ると,あと半分といつも思った。それがやたらに見たくなったのだが,まさかそんな話も切り出せず,長い事ためらっていたが,我慢が出来ず,その由を語った。私が即座に賛成すると,親類への手土産などしこたま買い込み大喜びで出掛けた。数日後還って来て「やっぱり,ちゃんと生えていた」と上機嫌であった。さて,私の栗の樹は何処にあるのか。 (昭和二九年十一月『朝日新聞』に発表)
by sato_ignis
| 2017-06-23 03:07
| 講義
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