灯を消して
床に体を横たえると
ノートに書き写したことのある
詩の一節が思われて来る
眠っているものからは降るのだ
棚引いている雲からのように
重力の豊かな雨が
リルケの「重力」と題された詩の終連なのだが
私 このとき 微笑を浮かばせている
わが身を横たえて識る
わが身から降るゆたかな雨に
私は微笑をむけている
その微笑は 私がはじめて生んだ子に
乳房をふくませていたときの微笑に結ばれているように思う
私が看護した兵士の
高熱の中で呼びつづけていたかすかな声の女名前に
私が答えていたときの
兵士の微笑 私の微笑にも似ているように思う
遠い過去の年月から 立ちもどって来た私の微笑よ
闇に白い花が開いてゆく
白いむくげの花のような
私が私自身にむける微笑の花を闇に咲かせて
私は眠りに入ってゆく
私はもういまは 悲しみに眠れない夜を持ちたいとは思わない
闇に目を開いたまま悲しみを見つめつづける力も消え去っている
私の心はもうどこへ行くこともなく私の中にあって
私を眠りに引き入れてゆく
毎夜 私はそうして眠る
私一人を包む闇の 眠りの平和を思って……
窓の外の軒下には 白猫が眠っている
昼間何度かこの家の庭に来て縁の敷居に前足をかけ
家の中をのぞき見している猫
宿のない猫が この家の軒下に来て眠っている
猫もいまは雀を追うこともなく
庭の柿の木の幹で爪を研ぐこともなくなっていた
猫も白い花になっている
詩集『夢の手』1986年