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旧友は、なにかひどく驚いたようなまるい目を天井へ向けたまま、荒い呼吸を繰り返していた。けれども、病室の天井はただ薄汚れているだけで、寝ている病人を驚かすものなどあるはずがない。
見ていると、旧友の目は、嵌め込まれたガラス玉のように全く動かなかった。じきに、その目がまるく見ひらかれているだけで、実はなにも見てはいないのだとわかった。顔を寄せても、なんの反応もなかった。 「どうしたんだろう。」 「中(あた)りゃんしてなす、テレビの相撲を観ているうちに。」 彼を呼びにきた旧友の細君がいった。彼の故郷であるこのあたりでは、中風のたぐいで倒れることをおしなべて<中る>といっている。そういえば、この男は高校のころ相撲部にいたな、と彼は思い出した。 「意識は戻ってないみたいですね。」 「いいえ。」と細君はかぶりを振った。「先生もそうおっしゃいますけんど、おらはなんぼか戻ってると思うておりゃんす。」 それから細君は、ためしに亭主へ声をかけてみてくれないかといった。彼は旧友の名を呼んでみた。すると、どういう刺激のせいなのか、旧友は、まばたきを一つした。たったいちどだけだったが、まるで音がするような強いまばたきであった。 細君は、胸の前で勢いよく両手を組み合わせ、狂喜の面持ちで彼を見た。 「ほれ、いま、まばたきしゃんしたえ。これは、あんたさんのお声がわかったという証拠でやんす。父ちゃんは、目で返事したんでやんすよ。」 彼はもういちど旧友の名を呼んでみたい誘惑に駆られたが、細君を困惑させることになっては気の毒だと思って、よしにした。細君は、彼の声にわずかながら反応を示したこの機を逃がすまいとするように、亭主の耳に口を寄せて熱心に語りかけていた。 ここは泌尿器料の病室で、入院が長引きそうなので空室の多いこの病棟へ移されたのだが、驚いたことに、偶然、隣室に高校時代の思い出話によく出てくる級友のひとりが虫垂炎をこじらせて入院していて、看護婦に確かめてから挨拶に伺ったついでに、こちらの様子を見にきて頂いたーーそんなことを細君は話して聞かせてから、主人はあなたのお声を耳にしてさぞかし意外に思っていることでしょう、といった。 「意外なのは、こちらもおなじです。」 と彼はいった。 まさか、こんなところで、寝台の上に肥満した四肢を投げ出して仰臥したまま泥人形のように微動だにしない旧友と再会することになるとは思わなかったのだ。 「あんたさんも運の悪いこってしたなあ。」 細君は眉をひそめて気の毒そうに彼を見た。郷里を出て、もう三十年越し東京暮らしをしている彼が、たまたま休暇をとって帰省中に、しかも人里離れた鉱泉宿で発病してあやうく手遅れになりかけた不運を、ロの軽い看護婦からでも聞き出したのだろう。 「ひどい目に遭いました。いつ、なにが起こるか、わからんもんですな。」 彼がそういったとき、不意に細君が小娘のような声を挙げて彼の寝衣の袖口を掴んだ。 「いま、ごらんになりゃんした? また、父ちゃん。まばたきしゃんした。きっと、おら共の話を聞いてたんでやんしょう。 それで、あんたさんの言葉に共感の合図を送ったんでやんす。」 そのまばたきを見損なった彼は、返事に窮して、枕の上の随分大きく見える旧友の赤ら顔を、黙って眺めた。相変わらず、ガラス玉のような目が飛び出しそうに天井を仰いだまま動かない。細者が我にかえって、摑んでいたの彼の寝衣の袖口をどぎまぎと放したのをしおに、お大事に、と彼は頭を下げて旧友の病室を出た。 隣には、見舞客の気配もなく、時折、細君のぼやくような独り言と、医師や看護婦になにか訴えるような声が、壁越しに低くきこえるぐらいで、一日の大部分の時間は空室のようにひっそりとしていた。夜ふけには、単独の鼾がきこえた。もはや旧友には昼夜の別がないのだから、鼾は夜眠る習慣を守りつづけている細君のものだと思われた。この病院は完全看護なのだが、 隣室では細君が泊り込みで病人に付き添っているらしい。 東京で暮らすようになってから、郷里とはすっかり疎遠になって、もはや呼吸とまばたきしかしなくなっている旧友のその後についても全く知るところがなかったのだが、耳ざとい看護婦によれば、旧友は長年教職にあって、いまは郷里と浜つづきの小都市の教育委員会で主事を務めている由であった。 隣室の旧友を見舞ってから数日して、彼の主治医が退院の相談に病室まできてくれた。彼は、必要な話が済んでから、医師に旧友の容態について尋ねてみた。医師は、自分の担当ではないからと口籠りながら、手術さえ可能なら希望が持てるのだが、といった。 「患部がきわめて厄介なところにあるらしくてね。脳外科の連中も手を出したがらないのです。」 「すると、彼はずっとあのままですか。」 「心臓が堪えられるならね。お気の毒なことですが。」 「時々、まばたきをしますね。」 医師は目を伏せてうなずいた。 「奥さんがそれに希望を託してたな、意識のある証獲だといって。」 医師はしばらく黙っていたが、やがて、 「でも、それでいいのじゃないでしょうか。そう信じられて、希望が持てるんだったら。私らはその希望をわざわざ打ち毀すようなことはしないのです。」 と顔を上げていった。 退院の朝、彼は隣室へ別れをいいにいった。ところが、細君の姿は見えなくて、旧友だけが初めて見舞ったときとほとんどおなじ様子で病床にいた。彼は、戸口でちょっと躊躇ったが、無人にも等しい病室の素っ気なさが彼を大胆にした。彼は、旧友の枕許までいくと、 「じゃ、お先にな。ねばれるだけ、ねばれよ。相撲の選手だったころみたいにな。」 と盆のような顔を見下ろしていった。 すこし待ってみても、旧友はまばたきをしなかったが、その目がすこし潤んだように見えた。 細君は、売店へ買物にでもいったのかと思っていたら、そうではなかった。本館の玄関近くの、幅広い木の階段の太い手すりに手ぶらでもたれて、会計の窓口に群れる人々をぼんやり眺めていたのであった。彼は、一階の外来診察室にいる主治医に挨拶してから、玄関へ出てきて、それを見つけた。彼は、階段の脇から、手すりの細君を仰ぐようにして退院の挨拶をした。 細君は、エプロンを外してまるめただけで、急いで階段を降りてくるでもなかった。 「そんなところで、誰か探してらっしゃるんですか。」 「なんも。ただ退屈だったすけに。」 細君は、ちょっと首をすくめて、そういった。 彼は、土地の患者たちのように退院後の念押し通院ができないから、せめて三週間にいちどずつ帰郷して病院を訪れ、手術治療のあとを点検して貰うことになっていた。その負担の大きい通院は、結局三度でおしまいになったが、その三度とも、彼は病院で旧友の細君を見かけた。 彼女は、依然として退屈を持て余しているらしく、いつも外来患者の雑踏を見下ろす階段の手すりにもたれていたが、見かけるたびに、前より全身にやつれが目立つように思われた。髪や顔の手入れの仕方、衣服の色や柄の選び方、それの着方も、どこか投げやりで、品位に欠けてくるように見えた。 主治医に、もういいでしよう、といわれた日、黙って別れるわけにもいかないような気がして、 「御主人、いかがです?」 と下から声をかけると、 「だんだんいいみたい、おらがそばにいてもいなくても。」 と細君はいって、居酒屋の女のように自分の下手な冗談を大口で笑った。 「いまでも、時々まばたきをしますか?」 「する、する。ウィンクみたいなやつを連発してる。」 彼は、そういってわざとらしく笑い崩れる細君から眼をそらすと、急ぎ足で玄関へ歩いた。
by sato_ignis
| 2016-06-10 01:15
| 講義
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