私が通っていたころ、
豊多摩の朝礼は放送で、教室で聞くものだった。
ご多分にもれず、校長先生のお話は、あまり興味をひくものではなかったので、
みな話をしたり、本をひろげたり、片耳だけをスピーカに傾けるのが常だった。
ある3月の朝、彼はマイクの前で、訥々と自らの戦争体験を語りはじめた。
曰く、東京大空襲の翌日、私たち近隣の生徒は城東に動員された、
死体を数えるためだ・・・炭化した死体を写真で見たことがあるだろう、
死体に見えるだけ、あれらはましなほうだ・・・焼き尽くされ砕けると人は
灰になる、まだくすぶる灰の山をかくと、焦げたボタンがでてくる、
これを5つまとめて、「学生1人」と数える・・・昨日まで笑っていた人が、
今日はボタン5つで1人になる・・・ボタン5つで1人・・・。
正確な数にも入らない死がありえるとは、当時の私には思いもつかなかった。
放送の途中から、いつも明るくざわついている朝の教室が、
ガラス越しに風を感じ取れるほど、静まりかえっていた。
1945年3月10日、東京大空襲。米軍による投下焼夷弾、48,194発。
被害家屋、268,358戸。罹災者、1,008,005人。死傷者、124,711人。
数字は警視庁調べ。実際の死傷者は、その数倍ともいわれている。