Waseda Weekly 第935号 Jun.7,2001 「100キロハイク」
100キロハイクにいってきた。おまえ6年だろう、まだ歩くのか、と呆れられるが、好きなものは仕方がない。晴天のもと、歩き出す。うっかり落し物をする。ざあっと大粒の雨にやられる。もちろん疲れる。後輩にはスイスイぬかれてゆく。新しい友情を得る。楽しく、つらい。まるで、おれの大学生活そのものだなと、ひとり苦笑する。
大隈講堂の夜。千差万別のようで、じつはひとつにちかい、苦痛と安堵と歓喜が、むせかえるようなエネルギーとなってうずまいている。時折、どっと紺碧の空がこだまする。この「力」を目前にすると、おれも彼らも大丈夫だ、これで日本も安心だと、底抜けの楽天家になる。これが100ハイの、ひいてはワセダ行事の醍醐味だとおもう。
家に帰って、脚をもみながら、早稲田魂でよく頑張ったと、自分をほめてやる。が、ふと考えた。おれは、早稲田魂で100キロ余を乗り越えたのか? はて、おれの「力」を早稲田魂とよぶべきなのか? そもそも、おれは早稲田魂をなのっていいほどの人間なのだろうか? さして高級なものではないだろうが、独立自尊に似た気持ちが、ふつふつとこみあげてくる。笑われるだろう。6年もの間、「ワセダ」を自分の代名詞とする喜びのなかで、さっぱり見落としてきた、大切な問いかけだ。
しかし、我を忘れるような美酒の酔いからさめて、ああ美味かったと、ふたたび心をふるわすとは、何というしあわせだろう。たとえ若造であっても、それだけはつかんでいるつもりだ。遠近の先輩諸氏をあおいでも、今日までの自分をふりかえっても、「ワセダ」に酔いしれたという誇りからは、決して逃れられまい。そして、これからの時間のなかで、自分とはなんぞや、早稲田魂とはなんぞやと、問いかけ続けてゆくのだろう。
人生は、山道を登るが如し云々と聞く。100ハイは人生のミニチュアかもしれない。疲れ切った脚をもみながら、これが早稲田魂だとつぶやき、ナニおれの力だとはねかえってみせる日が、何度あるのだろうか。可笑しくなる。可笑しくなって、また、脚をもむ。
(教育6年 里憲治)